第11章 内部の内部は外部である
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ポスドクの過酷な暮らし
ポスドクは、研究室の奴隷(ラブ・スレイブ lab slave)
私たちの乾いたジョーク
当時、私が所属していたのは、ハーバード大学医学部の分子細胞生物学研究室
この街には名だたる研究施設が集結していた
トポロジーの科学
私たちが捜し求めていたのは、膵臓の細胞の中にある特殊なタンパク質
膵臓の2つの働き
大量の消化酵素を生産して消化管に送り出す作業(外分泌)
もうひとつは血糖値を監視してそれを調節するホルモン(インスリンやグルカゴン)を血液中に送り出す作業(内分泌)
いずれも細胞内部で作られた消化酵素やホルモンが、細胞の外(消化管や血管)へ送り出されるという現象
これは実際、このようにさらりと説明できるほど簡単なことではない
なぜなら細胞は、細胞膜というしなやかできわめて薄く、しかしとても丈夫なバリアーで覆われた球体であり、これによって細胞内部の生命環境は、外部環境から厳重に隔離されている
細胞膜は一種のシールドとして存在するので、外部の物質は容易に細胞内部へ侵入することができない
そのかわり、細胞内部の物質もそう簡単には外部に出ることができない
それゆえ、細胞の内部から外部へ物質が"分泌"されるためにはきわめて精妙なメカニズムが働いているに違いない
これは細胞の動的なありようろを理解するうえでとても重要なこと
万一この分泌メカニズムが円滑に進まないと、栄養素を分解するための消化酵素が不足したり、あるいはインシュリンが十分、血液中を循環しなくなることが予想される
分泌の障害は、発育不良や糖尿病のような疾患の主要な原因となっているかもしれない
細胞生物学
このような着眼点をもって細胞の動態を調べる一大分野
一言で言えば「トポロジー」の科学
トポロジーとは一言で言えば「ものごとを立体的に考えるセンス」ということ
その意味で、細胞生物学者は建築家に似ている
パラーディのターゲット
1960年代から70年代にかけて、ロックフェラー大学は細胞生物学のセンター・オブ・エクセレンスであり続けた
その中心人物がジョージ・パラーディ
取り組んだ課題は細胞の内部で作られたタンパク質は、どのような経路で細胞の外に出るかを"可視化"しようというもの
パラーディがこの研究のために選んだのは膵臓の消化酵素産生細胞だった
生物学の課題を明らかにしようとする際、たとえ、その課題がどの細胞にもあてはまる共通の機構であるとしても(共通の機構であるほど重要性も高い)、その課題を解析するためのモデルとして、どの細胞を選ぶかはきわめて大切なこと
まず、観察しようとする現象が盛んに起こっている細胞であることが必要
むしろ、その現象を専門に行なっているような細胞があればそれに越したことはない
細胞の構造がその現象に特化されているはずで、それだけ観察も容易になる
次に大事なことは、そのような細胞がいつでも、容易に、かつ大量に入手できなければならない
膵臓の消化酵素産生細胞は願ってもないモデル細胞だった
この細胞はごくありきたりの細胞
膵臓の全細胞のうち約95%
残りの5%がインスリンなどのホルモンを産生・分泌する細胞
つまり、膵臓はほぼ消化酵素産生細胞の塊といってよい
次にこの細胞の消化酵素産生能力が驚くほど高い
消化酵素はすべてタンパク質でできている
この細胞は、毎日毎日、大量の消化酵素タンパク質を合成し、それを消化管へ分泌している
その生産量は、泌乳期の乳腺をも凌駕する
つまり身体のなかでも最も特化した分泌専門細胞なのである
なぜ、膵臓がかくも大量の消化酵素を、大量の細胞によって作り出しているかといえば、それはとりもなおさず「流れ」をとめないため
ルドルフ・シェーンハイマーが明らかにした生命の動的な平衡状態
大量の消化酵素はこの流れを駆動する実行部隊であり、膵臓は日々、黙々と新兵をリクルートし続けている
タンパク質の流れを可視化する
膵臓の細胞は確かに、絶えず大量のタンパク質を作り出し、それを細胞外に送り出している
つまり、細胞の内部にも「流れ」が存在している
しかしその「流れ」をどのように可視化したらよいだろうか
パラーディの武器
電子顕微鏡
問題はこの中をタンパク質がどのように流れているかを知る手立て
放射性同位元素
おそらくパラーディはアミノ酸を標識したシェーンハイマーのことを確実に知っていたに違いない
膵臓の細胞は酸素と栄養が供給されていればそのまま生き続け、消化酵素を合成、分泌し続ける
微弱な放射線を追うことによって、ラベルされたアミノ酸を取り込んだタンパク質の存在場所を特定することができる
パラーディの方法の妙は、放射性同位元素でラベルしたアミノ酸を"一瞬"だけ、膵臓の細胞に与えた、という点
一瞬とは、実際の実験レベルでは5分程度の時間である
このあと膵臓細胞が浸かっている培養液は直ちに交換される
ラベルされたアミノ酸が与えられた5分の間に合成された消化酵素タンパク質だけが「標識された」
パラーディはその可視化の方法として次のようなテクニックを用いた
ラベル後、膵臓の細胞は経時的に少しずつ培養液から取り出され、化学的に"固定化"される
この瞬間、細胞は生命活動を停止するが、その形態は保存される
細胞内のタンパク質分子もその場所に釘付けされる
このようにして、膵臓細胞に5分間、同位元素ラベルアミノ酸を与えた後、培養液を更新してから、さらに5分後、10分後、20分後、という具合に、細胞サンプルが取り出される
これを電子顕微鏡で観察するのだが、その差異細胞をX線フィルムの上に乗せる
X線フィルムの表面には薄く銀粒子が塗布されている
標識タンパク質が存在すれば、そこから発せられる微弱な放射線は、フィルムの銀粒子にあたってそれを黒く変色させる
内部の内部は外部である
標識タンパク質の黒い点は、まず細胞内の小胞体と呼ばれる区画の表面に現れた
ここがタンパク質の合成現場
次の時点で、タンパク質の存在場所を示す黒い点は、小胞体の内側に移動していた
パラーディはこの移動がもたらすトポロジーの変位をたちどころに見抜いた
内部の内部は外部である
一つの細胞を、薄い被膜で覆われたゴム風船のようなものとしてイメージする
風船の内側で生命活動が営まれる
実際の細胞の内部は、しかし、風船のような完全ながらんどうではない
核やミトコンドリアといった区画があり、小胞体もそのような区画の一つ
ちょうどそれはゴム風船の内部に存在する別の小さな風船
小胞体もゴム風船と同じ素材の被膜に覆われて、ゴム風船の内部に浮かんでいる
パラーディの観察によれば、タンパク質の合成は、まずこの小胞体の表面で行われていた
ここでいう表面とは、小さな風船(小胞体)の外側、つまり大きな風船(細胞)の内側という意味
次の瞬間、合成されたタンパク質は、小さな風船の内側に移動していた
このような移動が起こるためには、タンパク質は何らかの方法で、小さな風船の皮膜を通過して、内側に入り込む必要がある
その方法は当時、パラーディにも知るすべがなかったが、事実として、タンパク質は小胞体の内部に移行していた
小さな風船の内部とは大きな風船にとって外側に当たる
つまりタンパク質は、小胞体の被膜を通過してその内部に移行した時点で、トポロジー的には、すでに細胞の外側に存在している
小胞体の出自
大きな風船のゴム膜に対して、風船の外側から握りこぶしを突っ込んで陥入させた様子を想像してみてほしい
握りこぶしの周りにはゴム皮膜がへばりつき、握りこぶし自体は風船の内部に入っているように見えるけれども、握りこぶしが存在する空間は外側と通じている
小胞体はちょうどこのような方法で形成された
もちろん、タンパク質は小胞体の内部に入っただけでは、まだ実際に細胞の外に出ることはできない
しかし、細胞の外へ放出されるために、タンパク質はもう二度と皮膜(細胞膜)を通過する必要はない
それは続くパラーディの観察によって証明された
合成されたタンパク質を内包した小さな風船は、少しずつ形を整えながら大きな風船の内部を横切るように移動する
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そして小さな風船の皮膜は、大きな風船の端で、大きな風船の皮膜と接触する
このとき起こることは先程見た小胞体の形成過程の逆バージョン
接触した二つの皮膜は溶け合って融合し開口部となる
小胞体の内部にため込まれた消化酵素タンパク質は、この経路を通して細胞外へと放出される
もうひとつの内部がある理由
細胞は、内部で作り出されたタンパク質を細胞の外部へ運び出すために、直接細胞の皮膜を開閉する危険を避けたかった
それをすれば内的環境が外的環境に晒される瞬間を作ることになる
そのかわり、細胞はあらかじめ細胞の内部に、もう一つの内部を作った
それが小胞体
トポロジー的に内部の内部は外部となる
タンパク質を小胞体の内部に運び込むためには、小胞体の皮膜をタンパク質が通過する必要がある
しかし小胞体皮膜の開閉は、細胞膜の開閉に比べればずっと危険度が低い
なぜなら小胞体の内側はトポロジー的には細胞の外部ではあるものの、実質的にはまだ細胞に内包された区画に過ぎない
このようにして細胞は、最小限のリスクによって細胞内と細胞外の交通を制御する術を作り上げた
パラーディノ研究は細胞内部に展開するこの動的な交通をつまびらかにした
ここでもまた生命は不断の流れを作り出していた
ルドルフ・シェーンハイマーと同じく、パラーディは解像度を緩めることなく、部分ではなく全体を記述していた
"細部の構造的・機能的構成に関する発見に対して"、1974年、ジョージ・パラーディは、同じくロックフェラー大学の二人の共同研究者、アルバート・クラウド、クリスチャン・ド・デューブとともにノーベル医学生理学賞を受賞した
→第12章 細胞膜のダイナミズム